今日はバレンタインデーです。
学生のころ、この日はもう朝からソワソワしてました。登校した瞬間、さりげなく下駄箱を確認する。何も入ってない。まあそうだよね。でも念のため、机の中も確認する。教科書しかない。知ってた。知ってたけど確認した。
あの「念のため確認する」という行為、完全に期待してるんですよね。期待してないフリして期待してる。人間の中でいちばん切ないやつ。
自慢じゃないんですけど――いや、本当に自慢じゃないんですけど――毎年、本命チョコ自体はもらってたんです。ありがたいことに。
ただ、自分の本命からじゃなかった。
これがまた絶妙に切ないんですよね。もらえない悲しさなら、まだシンプルに落ち込める。でも「もらえるけど違う」って、喜んでいいのか悲しんでいいのかわからない。感情の行き場がない。チョコはあるのに気持ちの置き場がない。
くれた相手には本当に申し訳ないし、ありがたいんです。でも帰り道、ちょっとだけ複雑な顔してチョコ食べてた気がする。甘いのにほろ苦い。バレンタインってそういうイベントだったっけ。
極めつけは、自分の本命の子から「ちょっと話があるんだけど」って呼び出されたとき。来た。ついに来た。心臓バクバク。これはもしかして――
「〇〇君、呼んできてくれない?」
……いや、伝書鳩かよ。
あのときの僕の心臓を返してほしい。バクバクした分を返してほしい。
あの頃の僕に教えてあげたい。大丈夫、ちゃんと「この人からもらいたい」って思える人から、毎年チョコもらえる未来が来るよ、と。
結婚した今、バレンタインの景色はだいぶ変わりました。ソワソワもしないし、下駄箱も確認しない。というか下駄箱がない。大人になると下駄箱がなくなる。これ地味にさみしい。
でも毎年、嫁さんがチョコをくれるんですよね。
派手な演出があるわけでもない。廊下の端っこに呼び出されるわけでもない。「はい、これ」くらいの温度感で渡される。それだけ。
それだけなんだけど、これがなんだかんだ一番うれしいんです。
学生のころに夢見てた「運命のチョコレート」みたいなドラマチックなやつじゃない。でも、毎年忘れずに用意してくれてるということは、毎年ちゃんと僕のことを考える時間があるということで。それってよく考えたら、すごいことなんですよね。
ドキドキはないけど、じんわりくる。心拍数は上がらないけど、なんか温かい。若いころの恋愛がジェットコースターだとしたら、今のはこたつ。急上昇も急降下もないけど、ずっとそこにあって、じわじわ温めてくれる感じ。
こたつ、最高じゃないですか。
絵日記を描いていると、こういう「派手じゃないけど、ちゃんとうれしい日」が意外と多いことに気づきます。特別なことは何も起きてないのに、描き終わったあとに「今日、よかったな」と思える日。バレンタインに限らず、そういう日常のほうが、人生の大部分を占めてるんですよね。
だからまあ、下駄箱にチョコが入ってなかった過去の自分にも言っておきたい。
大丈夫。派手さはなくても、ちゃんとうれしい日は来るから。
ちなみに今日の絵日記はこちら。。
今日もお疲れさまでした。甘いもの食べて、ちょっとだけ自分を甘やかしてあげてください。


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